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合掌(がっしょう) |
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「ナマステー」インドの人々の挨拶は、朝昼を問わず、互いに合掌をしながら「ナマステー」であります。ナマステーという言葉はナマスという単語とテーという単語の複合語で、ナマスは「敬います」を意味し、今日我々日本人が南無釈迦牟尼佛とか南無阿弥陀仏というときの「南無」と同じ原語から生まれていると考えられます。テーというのは「あなたに」ということですから、ナマステーという言葉は「あなたを敬います」という意味になります。それをさらに合掌を支えつつ行うのですから丁寧なであることこの上ありません。
合掌というのもインドの習俗に帰するは言うまでもありません。ご承知の通りインドの人々は素手で食事を頂きます。我々日本人から見ますと行儀が悪いように感じますが、手で食べるにしてもちゃんと作法はあるようで、その最たるものが右手でしか食物を頂かないということなのです。厳しい家庭で育った方などは不浄の手とされる左手はテーブルの上にもあげないそうですから、我々の風習とはまったく逆であります。そこで左手は何に使うかというとトイレで汚物を処理するときのみに使うのです。インドでは左手で物を渡したり、握手をすべく手を差し出したりすることは大変失礼にあたるそうです。皆さんもインドへ行ったらお気をつけください。
インド人は右手には神仏の心が宿り、左手には迷える我々の心が宿ると考えますので、斯様な風習が生まれたのです。即ち合掌とは、神もしくは仏と、我々の迷える心が一体化される理想を表したものであると考えられます。
ところで我々日本人が、食前に食べ物に向かって合掌し「頂きます」というのは、食物の命や食物を育んだ大地や自然の営み、更には食物が食卓に運ばれるまでの様々なご縁に感謝することであることは言うまでもありません。「頂戴する」という言葉は仏教語で、仏に対し最高の敬礼を捧げることを意味しますが、食前に手を合わせ、「頂きます」と発声するという感覚は、日本固有の自然崇拝的な宗教観とインドの宗教観が融合した宗教儀礼であると考えられます。キリスト教圏では食前に神に祈りを捧げることはありますが、日本人の「頂きます」は、神仏は言うに及ばず食物に関わるすべてのものに感謝するのですから、非常に興味深い風習であります。核家族化が進み、仏壇の無い家庭も多く、生活の中に宗教が無くなったと言われる現代の日本社会です。宗教など無用の長物という方もあるでしょうが、宗教とは、神仏そして自然の営みに対し謙虚になることであるという現代的意義を考慮すれば、せめて食事の際には手を合わせる習慣を身に付けたいものであります。 |
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園長 千坂成也合掌 |
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