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親としての肝心要 |
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唐の時代のことです。廬山(ろざん)というところの禅寺で修行僧が作務をしていました。作務とは修行僧が行う日常の労働のことで、禅寺では日常の労働を読経や坐禅に劣らぬ修行と考えます。
さて、話を本題に戻しましょう。雲水達が穀物を石臼で挽いておりますとお師匠さんの智常禅師(ちじょうぜんじ)がやって来ました。
「おお!ご苦労さん。今日は何の作務だい?」
「老師。見ての通り臼を挽いております。」
「そうか。まぁ臼を挽くのは結構だが、真ん中の心棒は挽いてはならんぞ!」
石臼を挽くなどということは我々の今日の生活にはあまり縁のあることではありませんが、当然ながらクルクル廻るからこそ、役に立つ石臼でも、心棒が動いては具合が良くありません。
我々の生活もこの石臼の心棒の如き不動のものが無くてはならないという教えです。人並みに流行に乗り、情報を手に入れそれを仕事や生活に活かすことも必要でしょうが、人には踏み外してはならぬ、肝心要というものが自ずとあります。
世間を見渡すと、幼児虐待や、子供が犠牲となる事件事故が後を絶ちません。生命に関する事だけは、後で自分の行いを悔いても、ものごとは解決するものではありません。命は何ものにも代え難いもの。そんなことは誰でもわかっている事ですが、人間は当たり前の事が、ときに見えなくなる不思議な生き物です。ときに自分のわがままで子供を傷つけてはいませんか?子供はすぐに大きくなります。子供との時間は大切ですよ!子供の笑顔や、声を宝物に、後悔する事の無い日々を歩みましょう!
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