新緑の色も一層濃くなり、これからの強い日差しを心待ちにしているかのようです。この時期は地中に眠っていた虫たちの動きも活発になります。
仏教はご承知の通り、インドで誕生しました。インドには3カ月ほどの雨季があります。お釈迦様の時代の修行者は、樹下で眠り、常に遊行して定住すること無く行脚をしていたようですが、この雨季の間だけは友人や知人の家に宿泊することが許されたそうです。これを雨安居といいます。
定住して外出を控える1つの理由に、虫などの小さな生き物が増える時節であるので、これらの生き物を誤って殺してしまわぬ様にという配慮もあったようです。
僧侶の持ち物の1つに払子があります。我々日本の僧侶も使うものですが、本来の使い方は、虫を誤って踏み殺さぬ様に自分の通る道や、坐る場所などを掃く為の物だそうです。また、昔の僧侶の持ち物には水を濾す為の網があったそうです。これは水を頂く際に、誤って微生物を飲まぬようにする為であります。
このように元来の仏教は生き物の命を誤って奪わぬ様に細心の注意を払うのですが、肉食に関しては案外と寛容なところがあります。3種の浄肉という考え方があり、「自分で殺していない」「自分の為に殺されていない」「殺されたところを見ていない」という3種の条件を満たせば、僧侶でも肉食して構わないというのです。後代の仏教では他の宗教の影響もあり肉食を禁ずる場合も多くなりますが、この初期の仏教の姿勢は興味深いものがあります。
「徒(いたずら)に命を奪ってはいけない。」という教えの一方で「自らの肉体を維持する為に他の生命を頂くことを条件付で是とする」ということは何とも曖昧とも思えますが、実に現実的であるとも感ぜられます。厳密に言えば菜食であっても野菜にも命がありますし、農業の現場に立てば、その生産にあたって沢山の昆虫等の小動物が駆除されている事は言うまでも無い事です。
つまり、私達が生きるということは、必ず何かしらの他の命を頂戴するということなのです。日本では食物に向かって手を合わせます。これは食物を調達するのに労のあった方々に対する謝意だけでは無く、食物という命そのものに合掌するのです。私達は食べ物を「食う」のでは無く「頂く」と思える宗教文化を持っています。何は無くともこれだけは後代に伝えたい…。そう思います。
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