先日、園児の皆さんに本堂に集まってもらい「報恩の日」という行事を行いました。これは塩竈港復興の恩人である四代藩主伊達綱村公のご命日近くに毎年行っているものです。
藩祖政宗公以来、伊達家は新田の開墾とこれに伴う治水対策を積極的に行いました。これにより米どころとなった仙北地区から仙台城内に米や建築木材を運搬する為に、藩は運河の掘削を始めました。現在の貞山運河のルーツです。ちなみに「貞山」とは政宗公の法名に由来します。寛文十八年以降、御舟入堀と呼ばれたこの運河が重用されると塩竈港の荷揚げが激減し、これに大火が重なるなどして塩竈の村は衰退の一途を辿りました。ここで当時の塩竈の人々は新たに祭りを起こして町の活性化を計ります。すると鹽竈神社を深く崇敬していた当時の藩主である綱村公は貞享の特令と呼ばれる九箇条にわたるお恵みを下され、塩竈の窮乏を救います。
貞享の特令は事実上の租税の免除や、馬を扱う市の開催、芝居小屋設置の許可など様々な地域振興策ですが、港町塩竈にとって大切な施策は、米以外の荷物は塩竈港に荷揚げすることが義務付けたことです。この特令により塩竈は復興し、綱村公が薨去されると塩竈の村民は藩に願い出て綱村公の位牌を東園寺に安置し、毎年、公の命日の前日に逮夜法要を営み、翌日は村の代表が公の菩提寺である大年寺に墓参し、報恩の行を積んだのでした。この習慣は江戸期が終わっても連綿と今日まで行われています。藩主導では無く、民衆が率先して殿様の供養を行なった事例は全国的にも少ないと思われます。
さて、戦前は市内の小学生の代表が綱村公のご命日に東園寺にお参りしたそうですが、今日の公立学校ではかような宗教行事は行えません。当園の園児は言わば塩竈の子供達の代表で綱村公にお参りしたことになります。子供達に町の歴史を理解することは難しいかもしれませんが、このような行事を通じて、人間は否応無く天然自然の恵み、さらには沢山の方々の「おかげさま」を頂戴していることを感じて欲しいものです。
|