東園寺は松島瑞巌寺(まつしまずいがんじ)の末寺(まつじ)で、瑞巌寺27世大林宗茂禅師(だいりんそうもぜんじ)により開かれ、創建時は臨済宗建長寺派(りんざいしゅうけんちょうじは)に属した。
大林禅師の生没年は明らかではないが、瑞巌寺に残る歴代住職の記録より1400年代以前には遷化(せんげ)しており、これより東園寺の開創は1400年以前に遡れるものと思われる。しかし、これより後1679年(延宝7年)に遷化する蛮渓東廣禅師(ばんけいとうこうぜんじ)が、妙心寺派(みょうしんじは)寺院として中興(ちゅうこう)するまでの建長寺派末の時代の歴史は全く不明である。但し境内に残る1546年(天文15年)の逆修(ぎゃくしゅう)の碑より、この期間にも何らかの宗教活動が行われていたものと思われる。
さて東園寺が本格的に復興されるのは、現在の法系の祖となる曹源祖水禅師(そうげんそすいぜんじ)勅諡神通妙用禅師大和尚(ちょくしじんずうみょうゆうぜんじだいおしょう)が隠棲の地として伽藍(がらん)を整備したことに始まる。
曹源和尚は松島の出身で、藩祖政宗公の娘五郎八(いろは)姫の菩提寺である天麟院(てんりんいん)の徒となり、豊後の古月禅材禅師(こげつぜんざいぜんじ)、妙心寺無著道忠禅師(むちゃくどうちゅうぜんじ)等に参じ、瑞巌寺江南(こうなん)和尚の法を嗣ぎ、陽徳院住職を経て大本山妙心寺に開堂。さらに瑞巌寺住職に就任し、再び請われて妙心寺に再住した。現今、大本山妙心寺で使用されている洪鐘は曹 源和尚在 任中のものであり、和尚の銘文が刻まれている。
さて曹源和尚の入寺により復興なった東園寺であったが、慶応3年の塩釜の大火により境内全域を消失、本尊薬師瑠璃光如来(ほんぞんやくしるりこうにょらい)、曹源和尚頂相(ちんそう)等を残すのみとなり、その後明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となった法連寺(ほうれんじ)の護摩堂(ごまどう)を譲り受け、本堂兼庫裏(くり)として僅かに法灯を伝えるのみであった。
この苦難の時代を支えた實元玄真(じつげんげんしん)和尚の時代に当時の宮城電鉄により境内の一部が買収された。蚕を買い、畑を耕して食い扶持としていた貧乏寺に大金が転がり込んだのであった。しかし晩節を迎えんとしていた實元和尚は苦しい生活の中、一銭たりともその金を私用することなく、後の住職が伽藍を復興する資金すべしとの遺命を残し遷化したのであった。
金銭的に余裕の出来た無住時代の東園寺には、他山から転住を希望する僧侶もあったようであるが、当時の松島瑞巌寺住職の盤龍禅礎(ばんりゅうぜんそ)老師と執事長であった願成寺(がんじょうじ)和尚は、東園寺住職は瑞巌寺の徒弟より選ぶことを厳命した為、盤龍老師の弟子で京都臨済宗専門学校に学ぶ秀峰(しゅうほう)禅士が後継者として指名された。
昭和2年雪潭(せったん)と号して入寺した秀峰和尚は早速伽藍復興に取り組み、東北初の鉄筋コンクリート造の本堂を建立、昭和9年には本尊として釈迦牟尼佛を開眼する。また禅門においては未開の分野であった御詠歌を通して布教活動を行った。昭和42年秀峰和尚の遷化を受けて、精一精道(せいいちせいどう)和尚が晋山(しんさん)。秀峰和尚の念願でもあった塩釜中央幼稚園を開園。精道和尚は妙心寺派花園会本部長を勤め、海外布教に力を入れ、マウイ島臨済禅ミッション(日本名=ハワイ開教院)を兼務した。また昭和61年には妙心寺に視篆し妙心寺派684世となった。また伽藍整備に取り組み、昭和52年鐘楼建立、昭和54年三重塔建立、平成元年庫裏建立等、當山の主要な施設は精道和尚の手によるものといってよい。平成6年精一精道和尚遷化により、一道成也(いちどうせいや)和尚が住職に就任し現在に至る