平成三十年六月発行
「伊達綱村公三百年遠忌 その2」
貞享特令は塩竈を藩直轄地とし、これに課せられる年貢を屋鋪の持高に応じて分配する事、次にこの年貢分の金子に加えて年二百五十両の金子を社寺や村民に分配下賜する事、七月十日から八月十四日まで毎年小荷駄日市を立てる事、毎年三月と七月に物見芝居の興行を許可する事、商人荷物、五十集船、材木船の荷物はすべて塩竈に着岸する事、市川、山王の入作地の年貢も免除する事、本年貢以外の諸役も免除する事、開墾した新田(鷹巣入江)の民の食として用いて良い事、月六度の市を立て物流を盛んにするという九箇条で、財政支援に加え町の活性化を狙った他の地域には見られぬ保護政策でした。もちろんこの「お恵み」に対し塩竈村民は鹽竈神社護持の責任や浜役等を負う訳ではありますが、この恩恵の効果は絶大で塩竈は門前町としても港町としても大いに繁栄するのです。またこの貞享特令は肯山公一代のみならず一部の見直しは行われたものの、五代獅山公以降も連綿として幕末まで維持されました。
肯山公が薨去されると塩竈村民は大いに悲しみ、藩に願い出てそのお位牌を東園寺に安置し、ご命日の前晩の法要である宿忌をお勤めし、翌日は有志が肯山公菩提寺である仙台大年寺に墓参し献花するという行事が営まれるようになったと言います。貞享の特令の恩恵を受けた寺院は現在も四カ寺が法燈を今日に伝えていますが、東園寺に公の位牌が安置された理由は定かではありません。また東園寺は正式な菩提寺でもありません。しかし七代藩主重村公の帰依を受けた曹源祖水禅師の時代には、現今の東園寺碑とは異なる仙台藩の儒者田邊希元撰文の肯山公の業績を記した顕彰碑を、重村公が曹源禅師立会いの下ご覧になり、塩竈村民の計らいを大いに賛美したと伝えられます。当山としても民間主導型での藩主への報恩行を藩政時代から現在に到るまで主体的に厳修して来たのは大いに誇りとするところです。(つづく)