雲居希膺禅師 名号「南無観世音菩薩」
雲居希膺禅師 名号「南無観世音菩薩」 |
雲居禅師(1582-1659)伊予国上三谷に生まれる。土佐一條家の重臣小浜左京の子。9歳にして中村宇山(高知県中村市)の太平寺に預けられ小僧となる。15歳師匠真西堂に伴い上洛。東福寺内の永明院を経て、妙心寺蟠桃院一宙禅師に師事する。一宙禅師は豊臣五家老のひとり前田玄以に帰依を受け、蟠桃院を建立した。その半生に多くの戦乱を経験した雲居禅師であるが、寛永13年仙台二代藩主忠宗公の度重なる懇請を受け来松し、瑞巖寺99世となる。雲居禅師は瑞巖寺住職という立場にあっても、生涯深山幽谷を供として修行行脚をされた方であり、衆生済度の為に多数の墨蹟を残している。その多くは法語とよばれる、禅の教えや儒教の教えを引用しつつ人生訓を綴ったものであるが、観音菩薩や阿弥陀仏の尊名を墨書した名号も多数伝えられる。これは在家の仏壇の本尊、あるいは法事の際の床掛けとして使用されたものであろう。現在でも禅師の法流が残る滋賀県周辺では一般のお宅の仏壇に禅師の名号が見られることがあるという。当山の書幅は購入資料であるが、購入当初は線香の煙に燻されてか、本紙が真っ黒に焼けていた。「信仰焼け」とも言えるこの墨蹟の姿は、江戸期の人々の厚い信仰を生々しく伝えるものであると言えよう。