古月禅材禅師着賛「達磨画賛」
古月禅材禅師(1667-1752)は、禅師に後れること18年してこの世に生を享ける臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師と並び称される禅匠である。古月禅師は現在の宮崎県広瀬佐賀利、丹後守景實の後裔とされる金丸家の4男として生まれ、10歳にして佐土原の松巌寺の一道和尚のもとで出家。21歳で一道和尚に随行して上洛の後、畿内及び九州を行脚し、27歳までには多福寺賢巌善悦禅師にその境涯を認められているようである。その後も禅師は阿州如法寺、江戸済松寺、さらには松島瑞巖寺通玄和尚(当時は陽徳院住職か?)にも参じている。古月禅師が来松していた元禄八年(1695)師匠の一道和尚の遷化の報を受け帰郷し、松巌寺を監護する。古月禅師は賢巌禅師の法嗣として知られるが、実際の法は兄弟弟子である英山和尚から継いでいるようである。38歳で英山和尚を助けるために大光寺に入り、その後英山和尚が遷化すると41歳で、佐土原藩主島津惟久公の命を受け大光寺42世となった。この後、禅師は本山の出世の拝請が来てもこれを固辞し、九州地方を中心に布教活動を行った。禅師の門流は授戒会を積極的に行い、結制を行うなど済門復興の一翼を担うと共に、「盆踊り」や「いろは歌」を作成するなど民衆布教も積極的に行った。
通玄和尚の縁からか古月禅師の下には奥羽地方の雲水が少なく無い。当山の中興開山曹源祖水和尚もその一人であるが、道号を受けた碩学としては仙台資福寺の北禅、仙嶽、曹渓、山形大龍寺の自瑛等の名が語録に散見できる。
さて本題の達磨画であるが、肝心の達磨画を書いた作者は残念ながら不明。古月禅師の着賛は次の通りである。「萬里、海を航(わた)り、支那に蹤(あと)を垂る。心を指して相を斥(しりぞ)け、六宗を屈伏す。大哉矣(おおいなるかな)、徳化、繁衍たり、仰ぐべし、少林第一峰」海路インドより中国に禅を伝えた達磨さんが学問仏教を斥け、実践の修道を広めたことを讃えている。この掛軸は10月5日の達磨忌に、毎年当山の本堂に荘厳される。