伊達綱村公 消息並びに和歌「かれ枝さへ咲てふ花の春を得て云々」
綱村公(1659~1719)は父綱宗の突然の隠居により2歳で藩主となる。当然、僅か2歳の藩主に藩政を施行する能力は無く、後見人達により藩政は行なわれたが、これが「寛文事件」の引き金となる。寛文事件に対する幕府の処置は非常に寛大といえるものであったが、成長した綱村公はこの事件を教訓に重臣から一族を外すなど、藩政の改革を行なった。また綱村公は茶道に長け、堤焼き等陶磁器や、仙台平、黄檗宗の招来を始めとする寺社の建立再建等の文化興隆に力をそそいだ。さらに貞山運河開通により疲弊した塩釜に9カ条にわたる特例を発布、塩釜神社再建なども併せて塩釜に対する功績は計り知れない。当山に位牌が安置され毎年6月19日には宿忌(逮夜)法要が営まれ、毎歳忌当日は大年寺墓参が行なわれている。
法橋寿閑春のはしめ
の體を和して老父
宗関を祝しはへる
綱村
かれ枝さへ咲てふ花の春を得て
さこそ老木の隠家の梅