仙厓義梵禅師(1750〜1837)「百丈野狐」
仙厓義梵禅師は寛延3年(1750)生まれ、美濃武儀郡谷口村の出身。幼年、美濃清泰寺空印円虚和尚(1704〜1787)につき剃度。のちに武蔵永田東輝庵の月船禅慧禅師(1702〜1781)に参じてその法を嗣ぐ。さらに天明8年(1788)日本最初禅窟と称される博多聖福寺の住職盤谷紹適和尚(1714〜1792)に請われて同寺123世となる。仙厓39歳であった。その後、独特の表現で描かれる禅画と洒脱な賛により一家風をなす。文化8年(1811)、住職を弟子の湛元(?〜1855)に譲り、山内の虚白庵に隠棲するも、天保8年(1837)湛元が罪を得て流罪となった為に聖福寺に再住。同年10月病の為、聖福寺住職退任、10月7日、88歳にて遷化。普門円通禅師と諡された。
別号は円通、天民、百堂など。
作品は有名な公案である「百丈野狐」に由来するもの。賛が伝統的な様式を備えており、画賛共に独自の作風が顕著になる以前の作品だと思われる。
「不落因果、野狐を活得し、不昧因果、野狐殺さるる。若し又会せずんば、請う、北岩下に至りて、其の野狐を看よ。百堂拝畫賛」