鄧州全忠老師「鍬画賛」
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「抑(さて)も此の鍬は神代の初めより
形もかはらず雪中の竹の子
黄金の茶釜も此の鍬を以て
掘り出せり かかる宝の鍬を捨てて
及ばぬ事を願うべからず
田に畑に 打ち手の鍬の 小槌かな
八十五翁 南天棒鄧州」
鄧州全忠老師は佐賀県の人。南天棒の名で知られる。11歳の時に平戸の雄香寺に入門し、翌年得度。石応、蘇山、羅山、伊山、無学等々の禅匠に歴参して、久留米梅林寺の羅山の法を嗣ぐ。明治18年東京に出て、花園選仏道場を開創する。東京では山岡鉄舟、乃木希典と交流があったようである。明治24年には本山の特命により、松島瑞巌寺の住職に就任。明治29年11月瑞巌寺を退山。仙台大梅寺、白石傑山寺を経て、明治35年西宮海清寺に住し、同寺を復興、明治41年には妙心寺の出世している。
形もかはらず雪中の竹の子
黄金の茶釜も此の鍬を以て
掘り出せり かかる宝の鍬を捨てて
及ばぬ事を願うべからず
田に畑に 打ち手の鍬の 小槌かな
八十五翁 南天棒鄧州」
鄧州全忠老師は佐賀県の人。南天棒の名で知られる。11歳の時に平戸の雄香寺に入門し、翌年得度。石応、蘇山、羅山、伊山、無学等々の禅匠に歴参して、久留米梅林寺の羅山の法を嗣ぐ。明治18年東京に出て、花園選仏道場を開創する。東京では山岡鉄舟、乃木希典と交流があったようである。明治24年には本山の特命により、松島瑞巌寺の住職に就任。明治29年11月瑞巌寺を退山。仙台大梅寺、白石傑山寺を経て、明治35年西宮海清寺に住し、同寺を復興、明治41年には妙心寺の出世している。