「香山和尚遠来謝辞並偈」
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江左之香山和尚凌中夏 極熱遠來東濱寂寞地入 雲居老師塔消七周拜而 即拂袖去矣不遑謝遠來 乃打拙偈向途中呈上云 遠追憶不昧禪師 來入我門早告辭 縱出陽關千萬世 晨昏相對不相離 寛文五年八月初八日
洞水東初和南
(訓読)
江左の香山和尚、中夏極熱を凌魏、遠く東濱寂寞地に來り、雲居老師の塔に入利、七周の拜を消して、即り拂袖して去る。遠來を謝するに遑ず、乃ち拙偈を打し途中に向て呈上すと云う。
遠く追憶す不昧禪師
來たって我門に入て早く辭を告ぐ
縱い陽關を出づるとも千萬世
晨昏、相い對して相い離れず
寛文五年八月初八日
洞水東初和南
※訓読は瑞巌寺学芸員堀野真澄師にご教示頂きました。
雲居禅師の法嗣で雲居下の法燈の発展に力を尽くした洞水禅師の書。雲居下の法兄弟である香山祖桂禅師(滋賀県瓦屋寺中興開山)が雲居禅師七回忌に遠く近江国より雲居禅師の塔に参じた事に対する御礼に偈頌を作り贈呈したという内容。雲居禅師七回忌は寛文5年(1665)。同年に記された書であろう。
洞水禅師は諱を東初と言い、九州飫肥の出身で、飫肥藩主の伊東家と血縁者と伝えられる。13歳の時に同地安国寺定山祖慧禅師について出家、16歳京都妙心寺山内退蔵院、次いで江戸における伊東家の香華寺ある東禅寺嶺南崇六禅師の膝下で修行するが、江戸の喧騒を嫌って仙台北山覚範寺に転じ、清岳宗拙禅師に参じることとなる。洞水禅師は覚範寺で藩祖伊達政宗公と邂逅し、その才を政宗公に認められ、学資提供の約束を得る。
洞水禅師はよく政宗公の期待に応え成長し、政宗公が建立して以降、住持の遷化が相次ぎ空席であった瑞巌寺住職就任を依頼されるほどの禅僧となるものの若輩であるとの理由にこれを固辞、すでに高名であった雲居希膺禅師を推薦し、自らも雲居禅師の参じてその法嗣となる。
洞水禅師は當山所蔵資料、雲居希膺禅師法語「洞水長老賀正之偈曰云々」http://www.toenji.com/zousho/04.htmlからも読み取れるように俗世を厭い深山幽谷を共として行を積むことを理想としていたようだが、師である雲居禅師がまさに斯様な生活の実践者であった為に、仙台藩との応対などは洞水禅師が担っており、自身の理想に反して与えられた重責を遅滞なく全うした禅匠である。
以下の資料もご高覧ください。
・嶺南崇六禅師着賛「達磨画賛」http://www.toenji.com/zousho/123.html
・虚櫺了廓禅師 「安名 性海」http://www.toenji.com/zousho/69.html