龍津恵活和尚 「東園寺碑拓本」
東園寺の碑は塩釜港開港恩人伊達綱村公の遺徳を称え、東園寺中興開山曹源祖水和尚が東園寺復興の為に尽力したことを伝える石碑です。現在は慶応三年の塩釜大火の為に断碑となっています。この拓本は當山の檀信徒の鈴木様より寄贈をして頂いたものです。東園寺の歴史を知る意味では貴重な資料と言えるでしょう。
(訓読)東園寺碑
此の寺に先君肯山公之霊牌を置く。寺の北に大社有り。儼然として存す。乃ち祀典に載する所の陸奥第一宮にして塩竈祠は是なり。古は鎮守府留守職あり皆これを宗祠す。我が先君貞公に至り始て茅土(ぼうど)を本國に受く、因(よ)ってまたこれを欽崇す。而して肯公に至り大いに祠壇を起して、祭尊之盛を盡し以て祠壇をして無窮に隆盛ならしむ。則ち地を富まし民を賑すにあり。貞享二年に令九條を出す。一に曰く、邑之貢税を以て之に分與す。二に曰く、歳ごとに千金を發して之を賑給す。三に曰く、毎歳七八月の間、市中に馬を販ぐを得せしむ。四に曰く、戯場を春秋に張り聚めて以て盛んにす。五に曰く遠近海舶は皆湊(あつ)めて以て郵驛(ゆうえき)を助く。六に曰く侘(た)の邑に耕作するの税を免じ以て本邑之驛(えきじつ)を優(ゆたか)にす。七に曰く本邑及び侘の邑に耕作する者は賦歛丁役(ぶれんていやく)は一切これを(のぞ)く八に曰く開墾新田は民食に給す。九に曰く、月に交易を設け以て四方之財を通ず。而来これを奉じて怠り無く、其の地は富み、其の民はまた豊に、祭尊は斯れ盛にして祠壇斯れ隆(さかん)なり。是れ乃ち肯公之霊(たすけ)なり。而して民は其の賜(たまもの)を受く。肯公は享保四年六月廿日薨(みまか)る。是の日に當る毎に邑長等茂ケ崎之廟に上りて綵花を献ず。與からざるものは宿齋しこの寺に會(え)し其の霊牌拜すと云う。此の寺は本郡松島邑青龍山瑞岩寺自(よ)り出で、大林和尚を以て祖と為す。次は蠻溪。次は辨山。次は老樹。次は湖山。次は鎭州。次は了室。次は湛月。而して余は不侫(ふねい)なり。余は法を瑞岩曹源師に嗣ぐ。即ち松島圓満國師之正傳に而て定嶽祖翁之曾孫なり。定嶽師は禅理に深く、兼ねて文才有り。徳は崇く道廣し。肯公厚く歸嚮(きこう)し、時々に駕(が)を命じ聴法参禅す。因(よ)って師を延(ひいで)で天麟に出世せしむ。蓋(けだ)し國師之大法を永く断絶無からしむを欲するなり。乃ち今に至る綿々として余に至る。且つ吾師初め此山を卜(ぼく)するや年久し。破廃に及び師乃ち歎じて曰く。此の若き縣(けんけい)は豈(あに)霊牌を安ずる之所ならんや。乃ち工匠を募り経治す。緇素を挙(こぞ)って役を執り三年にして輪奐之美を成す。皆吾師之功なり。故に本執事の位を許さるる請うて中興の祖となる。夫れ苟(いやし)くも此の師之功微(なか)りせば将(はた)何處に霊牌を安んぜんや。因て今寺之存する所と霊牌之設くる所以(ゆえん)とを志し、斯の石を樹(た)て以後の鑑とす。
安永五年六月廿日 松岩山東園寺第九世恵活撰並立