猶以去八月中旬ヨリ愚僧心楽二
ナリ申候其子細ハ我耳不食仕サテ行歩
大儀心ものうくなり申候を病と存候
毛者(もは)や八十歳二なり候へハ其筈ニテ候
日外ハ芳札忝令一覧候其之
今存候ヘハ我耳ハかんてらのヽ二候
御一家ハ無事珍重〃〃 愚僧
此程迄ハ今一度罷登らんと存候
漸存命然とも老衰□事忘
も者(は)や旅行□□えんや
却為生甲斐ハ無之候先回
従御老母氷砂糖大壷二ケ其後
何やらん色々送給候忝らへとも
も者や歯モナクノドモスバリ候テ
何ノ味も覚□う候 御音信ハ無用二候
殊に音信ノ物ハ使者の迷惑二存事二候
能々□や□ニハ御念比無用二候
弟子共を□入候恐々謹言
九月廿八日 雲居希膺(花押)
後藤十右衛門殿
申報
雲居国師による後藤十右衛門宛の自筆書状。後藤十右衛門は不祥。
雲居禅師は万治二年八月八日に数え年七十八歳で遷化されていますので、文中の「もはや八十歳に候へば」という一節から、遷化の年あたりに書かれた書状かと想像出来ます。
「歯モナク、ノドモスバリ」という身体という体調なので、氷砂糖やその後も様々と贈ってくださるがそのような物は不要であるし、手紙も使いの者に迷惑を掛けるので送ってくれるなという内容。
雲居禅師が遷化する万治二年は妙心寺開山関山恵玄禅師の三百年遠諱の正当年で雲居禅師は上洛を志すも、天嶺和尚の年譜では禅師が老齢の上に長旅であるので門弟や国家老に反対されてこれを断念したと伝え、大亀和尚筆の年譜には妙心寺内に禅師の出頭を阻む動きがあったので断念したと記されています。