愚堂東寔禅師 偈頌「還郷那一曲云々」
去る平成22年10月1日、愚堂禅師350年遠諱に際し記念出版された『大圓寶鑑国師墨蹟集』に、この墨跡が掲載され、解説を着けて頂きましたので、これに基づき説明文を補足申し上げます。(平成22年10月)
石女舞長寿
木人歌太平
還郷那一曲
正好奏無生
咄
寛永辛巳 仲冬吉辰
前正法山主愚堂書
石女長寿を舞い 木人太平を歌う
還郷の那一曲 正に好し無生を奏するに 咄
前正法山主愚堂書
愚堂東寔禅師は天正5年(1577)岐阜県伊自良村大森の出身。年少時より記憶力に優れ、8歳の時より、東光寺山内陽徳軒の宗固首座という僧侶の下で漢文等を習う。15歳にして宗固首座の紹介で、東光寺の住職瑞雲宗呈和尚の弟子となり、東寔を名乗る。19歳諸国行脚。伊勢長島の説心、下野国興禅寺の物外、播州赤穂三友寺の南景の各禅匠に参じ、慶長10年(1605)、東寔29歳の時、三友寺において大悟する。禅師はこの悟りの境地を確かめるべく、興津清見寺に住していた説心和尚、臨済寺の鉄山和尚、備前大安寺の天長和尚に参ずる。その後、東寔31歳の時、妙心寺山内聖澤本庵の庸山和尚の膝下に参じ、さらに雲居や大愚等と諸国行脚。仙台にて虎哉禅師に参じたのはこの時である。そして、東寔34歳にして、聖澤本庵、庸山和尚の法を嗣ぎ、愚堂の道号を師より賜る。庸山和尚に初参の際に、蚊の中で夜坐に取り組んだことは有名である。
愚堂禅師は妙心寺開山関山慧玄禅師300年遠諱に際し、焼香師を勤めると共に諸堂の復興に為に尽力したとされる。白隠和尚に連なる愚堂下の法継は純禅とも称せられ、人法では現存する唯一の法継とされる。
作品は懐紙の小品(31.5cm×27.5cm)。寛永辛巳(かのとみ)とは寛永18年。禅師65歳の書と思われる。年譜によれば、寛永18年の仲冬は江戸に居していたようである。内容は「石女舞成す長寿の曲 木人唱え起こす太平の曲」に因んだ偈頌。「石女舞云々」は、洞山の宝鏡三昧の「木人方に歌い、石女舞いを起こす。」という言葉が原初だそうで、悟りを開いた人間の自由自在な境涯を表現したもの。愚堂禅師はこの禅語に因み、還郷(本来の自己へと還ること)の一曲は何だ!と問い掛けている。無生とは生滅を離れた真如の理のこと
この偈頌は愚堂国師の語録にも収録されており、「松窓景寿信女」、別本では「松隠祖長信女、百年後の為に偈を請う」と題されている。墨蹟集によれば引導法語とのこと。