鐵牛道機禅師 「萬里一條鐵」
鐵牛道機禅師(1628-1700) 一行「萬里一條鐵」
道号が鐵牛。諱は道機。寛永5年(1628)生まれ。長門須佐の人。父は毛利家の家臣。母の父は大内義隆の家臣であった永富家の子孫。11歳の頃より臨済宗妙心寺派龍峰寺の提宗に学ぶ。優秀であったが、勝ち気で、13歳の頃には些細なことから刃物で友人を傷つける事件を起こし、自刃しようとしたことがあるという。15歳にして、提宗につき得度、慧覚と名乗る。明暦元年(1655)隠元禅師と相見。続いて木庵禅師に参じ、さらに木庵禅師の命により隠元禅師に参じる。万治元年(1658)には即非禅師と相見し、その後も怠ることなく禅境を深め、寛文7年(1667)木庵禅師より印可を受ける。これより小田原紹太寺、江戸瑞祥寺、弘福寺、駿河瑞林寺、仙台大年寺等の復興開創に関わった。また千葉県の椿沼の干拓事業は鐵牛禅師が遅滞していた同事業を鐵牛禅師の帰依者である稲葉正則公(老中、小田原藩第2代藩主。春日局の嫡孫。)に通じて、事業を推進し実現したものであるとされる。
鐵牛禅師は初期黄檗宗が幕府と密接に関わり、教線を拡大する事に成功した立役者の筆頭ともいえる人である。伊達家が臨済宗妙心寺派瑞巌寺を菩提所としていたにも拘わらず、4代綱村公(正室の仙姫は稲葉正則の娘。)以降は鐵牛禅師開山の大年寺に菩提所としたことは、綱村公が鐵牛禅師の禅機に心酔したことに依る。
萬里一條鐵(ばんりいちじょうのてつ)は、一切平等の堅固な世界を意味する。
ある時、般若寺が火災に遭った。ある人が来て師(石門)に向って言った。「般若(仏の智慧)というものも、焼けてしまうのですな!」師は言った。「萬里一條の鐵!」
(伝灯録20石門献章より)