雲居希膺禅師「柴門獨掩千聖不如」
雲居希膺禅師 「柴門獨掩千聖不如」
雲居禅師の横物。
「柴門(さいもん)独り掩(おお)うて千聖も知らず」
ひっそりと粗末な門を閉じて、どんな聖者もその境涯を知ることは出来ないという意味。牧童と牛の関わりを通じて、悟りの心境が深まるプロセスを十の段階に亘り説いた廓庵和尚十牛図の最終章に載せられる言葉。十段階の修行のプロセスの最終章でありますから、修行の完成、修行者の理想をうたったものです。
序の全文を紹介すると「柴門(さいもん)独り掩(おお)うて千聖も知らず、自己の風光を埋めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還る。酒肆魚行(しゅしぎょこう)化して成仏せしむ。」
簡素な生活をし、聖者達も及ばぬ境涯を持ちながら、自らの輝きを隠し、先達の祖師方の後を追うことも無く、徳利をぶらさげて町に行き、杖をついて家に帰れば、酒屋や魚屋を導いて成仏させてしまうという意味。つまり修行の成果を見せつける事無く、町の人々と自然に接し、それでいて市中の人々を安楽させることを修行者の理想として説いているのであります。今どきの禅僧は市井に入ると、逆に俗に飲み込まれてしまいますが...。
想えば、大名から一般庶民まで、階級の隔てなく人々と接し、多くの墨蹟を遺した雲居禅師らしい言葉であります。