古梁紹岷禅師「枯れ蓮画賛」
「皮膚脱落盡 但有一真実」
小さな自分と言うものを滅し尽くしてこそ、一真実を体得出来るとの意。
本邦の芸能の習得方法は、先ずは自分の癖を排除して、師匠の技を盗み、これに成り切ることを是とする。そしてこれが完成した時、不思議な事に師匠の芸とは別家風を築くと言う事が少なくない。これこそ本物の個性というべきもの。現代の「褒めて伸ばす」「個性を伸ばす」という指導方法も結構だが、旧来の本邦の修錬方法で無ければ、体得出来ない技も沢山あるのではないだろうか。
小さな自分と言うものを滅し尽くしてこそ、一真実を体得出来るとの意。
本邦の芸能の習得方法は、先ずは自分の癖を排除して、師匠の技を盗み、これに成り切ることを是とする。そしてこれが完成した時、不思議な事に師匠の芸とは別家風を築くと言う事が少なくない。これこそ本物の個性というべきもの。現代の「褒めて伸ばす」「個性を伸ばす」という指導方法も結構だが、旧来の本邦の修錬方法で無ければ、体得出来ない技も沢山あるのではないだろうか。
画賛共に古梁紹岷禅師。一般には南山和尚の名で親しまれる。宝暦6年(1756)相模国生まれ。幼少期に郷里の曹洞宗長徳寺で出家。その後、縁あって江戸高輪東禅寺に修行の場を移して、同寺9世洪道和尚に師事する。
南山和尚が東禅寺で修行をしていた頃、宗村公13回忌の為に7代藩主伊達重村公が来山されたことがあった。小僧だった南山和尚は公に茶を呈したのだが、なんと誤って公の袴に茶をこぼしてしまった。しかし、僅か13歳であった南山和尚は不明を詫び、潔く自らお手打ちを請うた。重村公はこの態度を気に入り学資を遣わしたという。この後、禅師は白隠下の峨山慈棹禅師、古月下の月船禅慧禅師、物先海旭禅師に歴参し、物先禅師の法を嗣ぐ。
寛政5年(1793)仙台瑞鳳寺に住山。文化6年(1809)本山妙心寺に視篆式を行い紫衣を賜る。文政4年(1821)には覚範寺を兼務、天保元年(1830)、75歳で瑞鳳寺住職を退任、同寺山内の雄心院(廃寺)に隠棲。天保10年(1839)雄心院にて遷化。世寿84歳。遺命により閖上沖で水葬された。
東洋や梅関等との交流も盛んで、当時の仙台文化サロンの中心的な人物と言える。