古月禅財禅師「三社託宣」
天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)
謀計(ぼうけい)は眼前(がんぜん)の利潤(りじゅん)たりと雖(いへど)も、必(かなら)ず神明(しんめい)の罰(ばち)に当(あた)る
正直(しゃうぢき)は一旦(いったん)の依怙(えこ)に非(あら)ずと雖(いへど)も、終(つひ)には日月(じつげつ)の憐(あはれみ)を蒙(かうむ)る
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
鉄丸(てつがん)を食(しょく)すと雖(いへども)も、心(こころ)汚(けが)れたる人(ひと)の物(もの)を受(う)けず
銅焔(どうえん)に座(ざ)すと雖(いへども)も、心(こころ)穢(けが)れたる人(ひと)の処(ところ)に至(いた)らず
春日大明神(かすがだいみょうじん)
千日(せんにち)の注連(しめ)を曳(ひ)くと雖(いへど)も、邪見(じゃけん)の家(いへ)には到(いた)らず
重服(ぢゅうぶく)深厚(しんこう)たりと雖(いへど)も、慈悲(じひ)の室(いへ)に赴(おもむく)くべし
古月禅材禅師による三社託宣。三社託宣とは天照皇大神=伊勢神宮、八幡大菩薩=石清水八幡宮、春日大明神=春日大社の託宣を記したもので、託宣の内容は天照皇大神が正直、八幡大菩薩が清浄、春日大明神は慈悲を説いている。このような託宣は中世~近世に広く信仰され、三社の神像を画いたものや、三社の名と託宣の全文を記した掛け軸が民間の床にも飾られたようである。近世の禅僧の作品にも三社が多く遺されるのも、斯様な民間信仰の高まりと、江戸中期以降の禅僧と庶民との交流の深化を今日に伝えるものである。
古月禅材は寛文7年(1677)、日向那珂郡佐賀利邑(宮崎市佐土原町下田島)に出生。延宝2年(1676)10歳にして松巌寺、一道禅棟の下にて出家。貞享4年(1687)一道和尚に従い妙心寺山内智勝院に掛錫、次いで諸国歴参し、元禄3年(1690)には後に法を嗣ぐ事となる賢巌禅悦に参禅。またこの間、松島陽德院住持時代の通玄和尚にも参じている。宝永4年(1707)41歳にて大光寺の住持となる。以降、島津佐土原藩を中心に法幢を建てる。古月の名声は全国に聞こえ、伊達藩からも多くの修行者が膝下に参じた。東園寺中興開山曹源祖水和尚もその一人である。
東の白隠、西の古月と呼ばれながら、白隠禅師に比していささか地味との印象がある古月禅師であるが、古月の下で修行の基礎を固めた後に白隠の下で大事を極めた修行者は白隠下の長たる東嶺を始め数多く、法継が断じたとは言え古月禅師の遺風は今日も白隠下の修行の中に生きていると解釈して良いであろう。