鐵牛道機禅師「学道之人志要勍云々」
学道の人志は勍(けい)を要す
猛しく智劔を提げ心城を護らん
赤身を投入す魔闘の裡
百戦の功成りて六国清し
壬戌(1682)季秋
紫雲鉄牛機書して示す
鐵牛道機禅師(1382―1700)
道号が鐵牛。諱は道機。寛永5年生。長門須佐の人。父は毛利家の家臣。母の父は大内義隆の家臣であった永富家の子孫。11歳の頃より臨済宗妙心寺派龍峰寺の提宗に学ぶ。優秀であったが、勝ち気で、13歳の頃には些細なことから刃物で友人を傷つける事件を起こし、自刃しようとしたことがあるという。15歳、提宗につき得度、慧覚と名乗る。明暦元年(1655)隠元禅師と相見。続いて木庵禅師に参じ、さらに木庵禅師の命により隠元禅師に参じる。万治元年(1658)には即非禅師と相見し、その後も怠ることなく禅境を深め、寛文七年(1667)木庵禅師より印可を受ける。これより小田原紹太寺、江戸瑞祥寺、弘福寺、駿河瑞林寺、仙台大年寺等の復興開創に関わった。また千葉県の椿沼の干拓事業は鐵牛禅師が遅滞していた同事業を鐵牛禅師の帰依者である稲葉正則公(老中、小田原藩藩主。春日局の嫡孫。)に通じて、事業を推進し実現したものであるとされる。鐵牛禅師は初期黄檗派が幕府と密接に関わり、教線を拡大する事に成功した立役者の筆頭ともいえる人である。伊達家が臨済宗妙心寺派瑞巌寺を菩提所としていたにも拘わらず、四代綱村公(正室の仙姫は稲葉正則の娘。)以降は鐵牛禅師開山の大年寺に菩提所としたことは、綱村公が鐵牛禅師の禅機に心酔したことに依る。