古梁紹岷禅師「達磨画賛」
金槎、玉浪を分ち
五葉神州に満ちる
紫簫、吹徹の後
興尽きて高楼を下る
南山古梁敬題
(意訳)
金のいかだ(の如き大乗禅の教え)で波をかき分け、(インドから中国へ)とやって来た。(おかげで)達磨の教えは中国中に満ちている。紫の笛を吹き撤した後、(梁の武帝と問答をしたが、)興も尽きたので(要領を得んので、)高楼を後にしたのだ。
(註釈)
「槎」はいかだのこと。「金槎」で「金のいかだ」の意。これは蘆葉達磨の故事を指しているとも考えられるが、「金のいかだ」という語句のイメージから、インドから海路中国へと達磨が来た事と達磨大師が伝えた大乗の禅仏教ことを表現しているものと解釈した。
神洲はここでは中国のこと。五葉が達磨の教えの繁茂たることを表す語句で、中国に達磨の教えが満ち満ちていることを表す。
紫簫は紫の笛のこと。吹徹は「宝偈残華頂の月 玉簫吹徹す少林の春」等、出自の多い言い回し。
「興尽」は『蒙求』「子猷尋戴」紹介される王子猷の故事により、「興味が尽きた」という意味に理解し、転句を踏まえ、「梁武帝のもとを去った」と解釈した。中国からインドに帰ったとの意味の解釈も可能ではあろうが...。
(作者)
画賛共に古梁紹岷禅師。一般には南山和尚の名で親しまれる。宝暦6年(1756)相模国生まれ。幼少期に郷里の曹洞宗長徳寺で出家。その後、縁あって江戸高輪東禅寺に修行の場を移して、同寺九世洪道和尚に師事する。
南山和尚が東禅寺で修行をしていた頃、宗村公十三回忌の為に七代藩主伊達重村公が来山されたことがあった。小僧だった南山和尚は公に茶を呈したのだが、なんと誤って公の袴に茶をこぼしてしまった。しかし、僅か13歳であった南山和尚は無礼を詫び、潔く自らお手打ちを請うた。重村公はこの態度を気に入り学資を遣わしたという。この後、禅師は白隠下の峨山慈棹禅師、古月下の月船禅慧禅師、物先海旭禅師に歴参し、物先禅師の法を嗣ぐ。寛政5年(1793)仙台瑞鳳寺に住山。文化6年(1809)本山妙心寺視篆。文政4年(1821)には覚範寺を兼務、天保元年(1830)、75歳で瑞鳳寺住職を退任、同寺山内の雄心院(廃寺)に隠棲。天保10年(1839)雄心院にて遷化。世寿84歳。遺命により閖上沖で水葬された。
東洋や梅関等との交流も盛んで、当時の仙台文化サロンの中心的な人物と言える。
本紙 縦116cm×55cm