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法螺貝 住職の法話

平成二十七年七月発行

亡き方に心を捧げる

「人まさに安然として巨室(きょしつ)に寝(い)ねんとす。しかるに我れ噭々然(きょうきょうぜん)として随いてこれを哭(こく)するは、自ら以て命に通ぜずと為す。故に止めたるなり。」
 これは荘周という人が妻を亡くした際に、友である恵子(けいし)に話した言葉です。恵子が弔問に訪れた際、荘周は盆を叩いて歌をうたっていたそうです。恵子は長年苦労を共にした奥さんが亡くなっているのに不謹慎ではないかと荘周をとがめます。しかし、荘周は言います。
「私とて妻を亡くしたときは悲しみが込み上げ、何も手につかなかった。しかし、生命というものを考えると、もともとすべては無を本質としていることに気付いた。」
これに続いて述べられたのが冒頭の言葉です。要約すると、人間は死して雄大な天地の部屋で安らかに眠る。それなのに私がそれを追いかけて大声を張り上げて泣くことは、運命の道理に通じない、だから泣くのを止めたという意味です。
 話は変わりますが有名な孔子は自分の弟子である顔回が亡くなった際に人目をはばからず、身を震わせて大泣きしました。弟子達は孔子の取り乱す姿に驚き思わず声をあげます。
「あっ!先生が慟哭されている!」
これに対し孔子は言いました。
「そんなに泣いていたか。しかし、こんなに大切な人が亡くなっているのに、今泣かずして一体誰の為に泣けば良いのか?」
 妻の為に盆を叩き、歌をうたう荘周さん、愛弟子の死に号泣し身体を震わせる孔子さん、行いは正反対ですが、その心根は同じではないでしょうか?亡くなられた方のことをひたすらに想っての率直な行動、ここに供養の根本があるのです。人は生まれた時から、この世を去るという運命を背負い生きて行きます。しかし、天地という巨室で眠ると言われても、浄土に赴くと説かれても、大切な方を失った空虚感を簡単に満たすことは難しいものです。であるからこそ、何かしらの「行」が必要です。歌も慟哭も真心から生じたものであれば、これも「行」と言えるものでしょう。もちろん坐禅や読経念仏も「行」であります。日々精進致しましょう。


東園寺住職 千坂成也 合掌


 
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