平成二十八年七月発行
自己を殺す
「我々の稽古は徹底的に個性を殺し、伝統的な型を真似ることから始まる。そして個を滅し切ったところに、新たな個性が生まれるのである」
これはある能の大家がおっしゃった言葉です。能に限らず、また世の東西に関わらず、伝統的な文化や美術は先ず徹頭徹尾、基礎を心身に教え込み、一見没個性的な鍛錬の繰り返しを強いる事があるようです。しかし、これが技量の向上に大いに役立ち、繊細な作品を生み出すことは言うまでもありません。
芸術に比べると痴がましいのですが、我々が学ぶ声明という読経の節もこれに似ています。声明の師匠はとにかく読経の中に癖が入らぬように、母音と子音が正確に発音出来るように私たちを指導します。「東北人は訛りというハンデがあるのだから、しっかり練習しなさい!」とは小衲が長年お世話になった妙心寺山内の古老の弁…。しかし、声明の師匠のおっしゃる通り、一度しっかり癖を消したお経というものは聞いていて心地良いものです。
最近は「個」が重んじられるあまりに、個性の名を借りた自我が横行する世の中ですが、ものごとを深く学ぶ為には、自己否定という山を越える必要があるのです。