平成二十八年十月発行
「達磨忌~無功徳」
10月5日は達磨大師のご命日です。日本人にとっては起き上がり小法師の玩具の姿で親しまれていますが、達磨さんはインドから禅仏教を中国に初めて伝えた方という意味で、初祖(しょそ)と呼ばれ尊崇されています。
達磨さんは中国の普通元年(520)に海路、広州の辺りに上陸し、梁の武帝と問答したと伝えられます。梁の武帝は篤く仏教に帰依しており、その生活も仏教の戒律に準じたもので、「皇帝菩薩」「仏心天子」と称えられる程の方でした。そんな武帝でしたが、達磨の伝記ではとんだ引き立て役を演じることになります。史実かどうかは別として、禅宗で珍重される武帝と達磨の問答は次の通りです。
武帝「朕は仏教に帰依し、たくさんの寺を建立し、多くの僧侶を得度させて来たが、この功徳はいかなるものであろう?」
達磨「功徳など無い。煩悩の原因を作っただけだ!」
武帝「それでは真の功徳とは何だ?」
達磨「妙なる智慧は本来空寂なるもの。これを得ることこそが真の功徳である。」
武帝「それでは言下に尽くせぬ究極の真理とはなんだ?」
達磨「廓然無聖(かくねんむしょう=カランとして何も無い。)」
武帝「真理が何も無いというならば、朕の目前におるお前は何者だ!」
達磨「不識(知らんわ)」
噛み合わぬ会話…。しかし、達磨さんの答えにはすべての存在が執着すべきものでは無いという教えを、実生活に活かしなさいというメッセージが込められています。たとえば一番目の武帝の質問については、布施奉仕には三輪清浄と言って、施す者の心、施される者の心、そして施す物の三つが執着を離れ清らかであるという条件が満たされねばなりません。功徳を期待して施与しても実は功徳なんて無いのです。
武帝も仏教をよく学んだ方ですから、布施の意義を知らぬ筈はありません。しかし智識が行動に活きないということは現代にもよくあること。一切は空であると殊勝に説く坊さんも、言うは易く行うは難し…。