平成十八年八月発行
『 禅寺の庭園 』
墨蹟(ぼくせき)と呼ばれる書、偈頌(げじゅ)と呼ばれる漢詩、さらには庭園など禅の悟りの心境を表現するには様々な方法があります。中でも京都の寺院などに見られる庭園は、禅の教えなど知らなくとも見ているだけで、ホッと落ち着けるものばかりであります。もっとも紅葉や桜の時節などは、とてもゆっくり拝観できるものではありませんが・・・
石庭の龍安寺、東山の銀閣、夢窓国師(むそうこくし)が作庭したとされる天龍寺の曹源池、大徳寺塔頭寺院の茶室とマッチした石庭。妙心寺の山内では東海庵の白川砂で波紋を描いた石庭が有名ですし、狩野常信作の退蔵院の枯山水は、陰陽を表現した昭和の名園と併せて観光客がたえることがありません。このように庭園で名を馳せる臨済宗寺院は枚挙に暇がありません。
庭というものは限られた空間の中に山を造り海や川を作ります。植物は当然成長しますが、多くの由緒正しい庭園は、時には植物の成長を止めながら長期間にわたり、風景を維持しているのです。
龍安寺の石庭は特に禅の教えが顕著に表現されたものであるといえます。石庭の中には特に樹木は植えられていません。大小十五個の石と、白川砂と呼ばれる細かい砂利で庭園が構成され、土塀の外側のしだれ桜が、外界から僅かに妍を添えるのみであります。この石庭にも、長い歴史の中には、珍しい茶花や樹木の実生が生えて来たこともあったでしょうが、ことごとく除かれて、何百年も同じ風景を伝えているのです。禅は分別というものを嫌います。世の良し悪しは他でもなく我々人間の決めたものでありますから、悟りの世界にあっては、茶花も雑草にも差別はありません。まさに龍安寺の石庭は聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)(言葉にし得ぬ最高の真理)を表現したものといえます。話は変わりますが、京都のある老師さんは生えてくるすべての雑草を大切にされ、除草をさせないとか・・・世の中いろいろな考え方があるものです。