令和六年六月発行
「報恩の日」
6月20日は仙台藩四代藩主伊達綱村(つなむら)公のご命日。綱村公は塩釜港開港恩人とか塩竈の恩人と称される方です。
綱村公は寛文事件、いわゆる伊達騒動の渦中で成長したせいかとても神仏崇敬の念が篤く、仏教では黄檗派の鉄牛禅師に帰依し、仙台に大年寺を建立。神社では鹽竈神社を崇敬して諸説あった祭神を多くの学者達に議論させた上で決定し、別宮に主祭神たる塩土老翁神(しおつちおじのかみ)、左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)を祀り、境内を一新しています。(実際の完成は五代吉村公の時代。)
話は変わりますが、藩祖伊達政宗公の時代から藩では物資の流通を盛んにする為に木曳堀(こびきぼり)、舟入堀(ふないりぼり)などの水路整備を行います。現在は政宗公の戒名である瑞巌寺殿前黄門貞山禅利大居士にちなんで貞山堀や貞山運河と呼ばれる運河がこれですね。
舟入堀の実用が盛んになると、仙台城内に効率よく物資が運ばれるようになりましたが、塩竈港は荷揚げが激減、また折悪く天和2年(1682)には大火が襲い、塩竈村は衰退の一途をたどりました。しかし当時の塩竈の人々はなんとか奥州一宮の門前町を盛り上げようと新しい祭りを起こします。これが帆手祭りの前身となる「伜(せがれ)まつり」です。綱村公はこれに呼応するように鹽竈神社の門前町の衰退を救う為、九箇条に及ぶ特令を塩竈に施行しました。
この貞享特令と呼ばれる恩恵は租税の実質免除や毎年250両を下賜し、これを寺社や村民に分配されること、米以外の商業的な荷物は必ず塩竈に荷揚げすることなど、他の村から不平が出る程の振興策でした。塩竈はこの施策により大いに繁栄し、これが幕末まで続くのです。
享保4年(1719)、綱村公が亡くなると塩竈村民は藩に願い出て東園寺に位牌を安置し、ご命日の前夜のお勤めである逮夜法要を東園寺で行い、翌日には村の有志が綱村公の菩提寺である大年寺にお参りするという行事を長年続けて来ました。
全国的に見ても藩主の毎歳忌を村民が藩にお願いして行うという事例はとても珍しいことだと思います。