平成二十二年八月発行
『時間に使われる?時間を使いこなす?』
「忙しい!時間が無い!」「退屈だ!どうやって時間を潰そう。」何れも日常で私達が口にしたり、耳にしたりする言葉です。
「一日二十四時間、どう心を用いたらよろしいでしょう?」と弟子が質問。すると師匠は「君は二十四時間に使われているようだが、わしは二十四時間を使いこなしている。さて、君はどの時間のことを尋ねているのだい?」
これは唐の時代の禅僧、趙州和尚の問答です。弟子は二十四時間に使われていて、趙州和尚は二十四時間を使いこなしている。弟子は師の下で修行に励んでいるのですから、時間に使われているというよりも、趙州さんに使われているという感もあったかもしれませんが、何れにしても、使われてしまってはいけません。
師匠の命で作務をする。上司の命で業務をこなすと言っても、自分が自分の肉体で自分の人生の一ページである時間を使うのです。出来るだけ自分の能力を集中させて、自分自身の事として、しっかりとものごとを行じてこそ、時間や他者に使われたのでは無く、自分自身が自分の時間を使った事になるのです。念の為言っときますが、師匠の言いつけを無視するのが師匠から自由になることではありませんよ。それは自分のわがままに捕捉されているのですから、自由とは言えません。
一般的には時間や他者の束縛から離れることを自由と言うのでしょうが、実生活となれば、離れたくとも離れる事が出来ないものはいくらでもありますし、人間は限りある命を生きている以上、必ず時間というものに制約があるというのは当然のこと。結局、時間や他者から自由になろうなんてことを考えずに、粛々と日々を送ることが、時間に使われずに時間を使う唯一の方法なのかもしれません。