平成二十四年六月発行
『真理は何処に?』
先日、中国河南省、熊耳山空廂寺にお参りして来ました。参拝の目的は瑞巌寺先住職、そして小衲の師匠である素雲軒老師の分骨法要を厳修することでありました。素雲軒老師はお元気な頃に、達磨大師が葬られた地である熊耳山に散骨をしたいとおっしゃっていたそうです。今回、散骨は適わなかったものの、分骨の儀が行われ、多くの法兄弟と老師の思い出を語り、有意義な時間を過ごすことが出来ました。
さて、達磨大師の死にあっては、大師が遷化され熊耳山に葬られたた折、北魏の使者として西域を旅していた宋雲がパミール高原で片方の靴を手に裸足で歩く達磨大師に遇ったと言い、達磨大師の遷化を信じないので、大師の塔を暴いてみたところ、棺の中には靴が一足遺されたのみで、その遺体は何処にも見つからなかったという逸話があります。熊耳山は達磨大師が葬られた場所であると申しましたが、達磨大師がこの逸話を信ずるならば、熊耳山は大師が永遠の眠りに附いた場所ではありません。
しかし、熊耳山の風景に接すると、ダルマという言葉のもう一つの意味が思い出されます。ダルマには「真理」「存在」という大切な意味があります。熊耳山麓に忽然と姿を消した達磨さんでありますが、「真理」としてのダルマは処々に歴々、我々の心が調えば、どの風景も真理の姿。如何なる場所にあっても祖師と共にあるのです。
こんな考え方をすると、亡くなっていた方々も真の存在としては、常に私達と共にある。そう思えます。