嶺南崇六禅師「着賛 達磨画賛」
嶺南(れいなん)禅師は江戸時代前期の臨済僧。諱は崇六(すうろく)。日向飫肥(おび)の出身。俗姓守永氏 角隠西堂に投じて出家、次いで砂土原の定山和尚、駿河清見寺説心和尚に歴参。京都に上り、妙心寺龍泉派景川宗隆禅師の法孫で、大心院に住職していた芳澤祖恩禅師に参じてその法を嗣いだ。慶長14年(1609)、故郷日向飫肥藩主伊東祐慶(すけのり)は、江戸桜田に東禅寺を開創し嶺南を開山に迎えた。寛永初年(1624)妙心寺開堂。妙心寺117世。大心院6世。鳥取体玄寺開山。寛永20年(1643)7月27日、後事を定州に託して示寂。大天法鑑禅師と諡(おくりな)される。
嶺南禅師は仙台藩主伊達政宗公と交流があり、政宗公と共に和漢聯句と呼ばれる形式の詩を遺しているという。また、瑞巌寺中興洞水禅師は日向飫肥の出身で、江戸東禅寺開基伊藤祐慶公の身内であるともされ、嶺南が参じた定山和尚のもとで出家している。当然のごとく洞水禅師諸国行脚の修行にあっては嶺南禅師が住す東禅寺にも立ち寄っていて、嶺南禅師は洞水禅師の資質を見抜き参禅を許すが、洞水禅師が江戸の喧噪を嫌い、陸奥へと歩を進めたようである。この洞水禅師の江戸参学の際には洞水の頂相に着賛した虚櫺禅師と出会っている。