平成十六年十一月 発行
『 馬鹿になれ! 』
「馬鹿になれ」、禅門の修行においては、この馬鹿になるということが良く使われます。禅寺は元来、経文を学ぶところでも、仏画や仏像の知識を蓄えるところでもありません。実になりきる訓練をする場であるといわれます。自給自足の生活を基本となす専門道場では、食事も掃除もすべて雲水とよばれる修行僧自身によって為されます。食事の世話の係りになればその仕事になりきり、掃除の際には掃除になりきり、坐禅にあっては坐禅になりきるのが、禅堂生活の肝要なることであります。
私の修行時代の思い出に「肥え汲み作務」があります。私が修行した頃の瑞巖寺には教材として(?)汲み取り式トイレが一つだけ残っており、新米の雲水が交代でこの作業にあたっていました。見たことも無いような大きな杓子で汚物を汲み取り大きなバケツに移すと、それを二人がかりで竹やぶへと運びます。すると生まれて初めての作業に、恐る恐るバケツを運ぶ我々に向かい先輩雲水がとんでもないイタズラを仕掛けてきました。なんと、小石をバケツに向かって投げてくるのです。みごとバケツに小石がポトンと落ちると汚物が二人の雲水の衣服に……文字通り、ウンが悪ければ顔や口へと汚物が跳ね上がります。こうなると汚いも何もありません。そう思ってからの仕事のはかどること!汚い臭いを忘れれば肥え汲みは、大した仕事ではありません。しかもこの日だけは一番風呂がもらえるのです。
馬鹿になるとは、自己の思惑を捨ててそのものになりきることですが、禅では日常の行事も、仏様に祈りを奉げるということについても同様であると考えます。余計なはからいを捨てて真っ白な気持ちで仏に向かえば良いのです